頭蓋骨は咬む力を受け止めている
矯正治療を行う上で矯正歯科医が押さえておかねばならない最も基本的事項が頭の骨の形態です。頭の骨はいくつもの小さな骨が結合して機能しています。頭の骨を正面から見てみると、まるではしごのように線が引けます。この線に沿って咬合力がどのようにかかっているかを調べたSpencer Atkinsonという学者がいます。彼によると咬んだときには縦方向には縮む力が働き、水平方向には伸びる力が働くというのです。つまり、咬む力が強い人は横方向に広い顔立ちに近づき、縦方向に短くなる傾向があるということです。高校大学で物理学が好きだった人は人間の体の力学構造に興味がわくかもしれませんね。人間の体は習慣的にかかっている力に適応して成人でも変化する能力が誰でも備わっていますので、食べるという習慣ひとつ取ってみてもこのような力が働いて徐々に顔の形に影響してくるわけです。
力に耐えられるように骨は適応していく
当然、顔だけではなく歯を支えている歯槽骨も変化します。上下で咬合時の力のかかり方が異なるため、上の歯槽骨と下の歯槽骨ではまったく構造が異なってきます。上顎の歯槽骨はちょうど背骨と同じで主に圧縮されるような力しかかかりませんので周囲の骨が薄くなっています。下あごの歯槽骨は周囲の骨は厚く、内側の骨の構造も放射状にネットワークを張っています。これは一方向にしか力がかからない上顎と異なり下あごは曲がったりねじれたりするためより頑丈になってくるためです。
習慣的な力がかかると骨は適応していきますが、このねじれと曲げの力が部分的にかかってくるとその部分だけ骨が張り出してきます。咬む習慣による身体の適応なので、これを見て病気だと思わないで安心してください。専門用語では”外骨症”といいますが、通常は見つけたからといって特に処置はしないです。生活しているとさまざまな習慣や癖も出てきますが、正常な舌の位置や鼻呼吸などの良い習慣であれば顔の形も整ってきますが、頬杖や口呼吸などの悪い習慣や癖があるとその習慣的な力に適応して平均的な顔立ちからずれて骨が変形してくるのです。 顎が左右にずれて歪んでいる方は唇や笑った時に歯ぐきが片方だけ下がって見えるカントという状態になることがあります。その場合には歯科矯正用アンカースクリューを併用してカント修正をすることで顎の歪みが改善します。
顔の形に影響を与える要因 ~徳川将軍の顔だちからの考察~
徳川将軍家代々の顔の形を調べた文献を参考に、矯正歯科専門医としての考察を加えました。上の顔写真は14代将軍家茂の横顔の復元図です。これを見て真っ先に気づいたのは、下あごが急な角度で斜め下に伸びていて、そのため顔が長い。唇の印象は、突き出ていることから上下の歯は前に出ているということです。家茂の時代は戦乱の時代ではなく、食事は将軍のための特別仕様でほとんど噛む必要がないくらい調理されていたようです。マグロ、サンマ、イワシなどは庶民の食べるものとされていた時代で、家光が目黒に狩りに行った時に農家で食べたサンマの味が忘れられなかったという落語「目黒のサンマ」は、偏った将軍家の食生活の事情を物語っています。もし私が14代将軍家茂を矯正治療するならば、歯科矯正用アンカースクリューを用いて下顎のオートローテーションさせて口元の突出とともに治します。
一方、家康や秀忠など江戸幕府初期の将軍の時代は合戦がありましたので生きるため咀嚼機能は発達し、四肢の筋肉も発達していました。代を下るに従い、咀嚼筋などの機能をそれほど使わなくても生きていけるようになったため筋肉が生活に適応していき、支える骨の構造も変わり、顔の形は面長な顔になっていったと考えられます。4つある咀嚼筋の中で強い筋肉が咬筋と側頭筋です。発達するとそれらの筋肉が付く骨は盛り上がるのですが、代を下るに従い隆起も減っています。下顎のエラの部分や頬骨、頭の横の骨がほっそりしてきます。いわゆる現代人の顔の特徴が出てきます。
日々の矯正歯科の臨床経験の中でも家茂のように面長で前歯が出ていたり(上顎前突)、前歯があいてたりする方(開咬)はあまり咀嚼筋の付着する骨が隆起していない傾向が強いです。老化が遺伝要因だけで決まるのではなく生活習慣によって双子でも異なるように、顔の形やかみ合わせも生活習慣で大きく変わっていくのです。
筋肉と顔の形
人間の骨は持続的で生理的な力で変わっていきます。顔、特に顔の下1/3(下顔面部)は変わりやすい部位で、舌や咀嚼筋、顔面、頸部の筋肉の緊張度や位置が正常でないと徐々に歪んできます。例えば雑誌やテレビゲームをする時の姿勢は集中するあまり長時間同じ姿勢でいることから顔の歪みの原因となっていることがあります。また寝るときにうつ伏せで寝ると枕に押し付けられるため下顎に弱い力が持続的にかかります。寝る方向が決まっている場合にはフェイスラインの変化が顕著に表れてきます。
噛む回数や食べ物、口呼吸の習慣でもフェイスラインが変化しますし舌の位置が正常でない場合にもフェイスラインが変化してきます。14代家茂のように江戸時代の徳川将軍は代を下るにしたがってあまり咬まない食事を幼少期から食べる習慣になったために咀嚼筋が弱く面長で開咬の傾向が出ています。
生理的で習慣的な力で変わる骨
徳川将軍の頭蓋骨の研究からわかるのは習慣的に生理的な力が持続すると骨が適応して変わってくるということです。生理的な力とは筋肉が生み出す力と同等の力を言います。持続的な筋肉活動や機能のため骨に補強が必要と体が判断すれば骨も隆起し、必要ないと判断すれば萎縮します。2013年6月に東京上野にある国立科学博物館で江戸時代の人骨の展示があった際の興味深かったので展示されていた骨を載せておきます。これは江戸時代に肉体労働を生活の糧として生きた人の足の骨です。この骨には通常はない骨の隆起が見られます。仕事で使う筋を支えるために負荷がかかる部位の骨が適応し隆起が起きたのです。このように通常、筋肉が張り付いている部位が隆起しやすいですが生活習慣で負荷がかかっているところにも骨の隆起が起きます。
日常生活の癖や呼吸など習慣的にかかる力に骨は適応する
日常生活で私たちは常に何らかの力を感じています。たとえば、食べ物を食べるときに歯と歯の周囲の組織は一瞬(1秒程度)強い力を受けます。 そのときの咬む力は強大で、やわらかい食べ物を咀嚼するときには1~2kgですが、硬い食べ物では50kgもの力がかかっています。歯にこれほど大きな力がかかると、歯の周りのクッション(歯根膜)だけでなく力はそのまま歯の周りの骨(歯槽骨)にも伝わります。 また、下の顎の骨は大きなあくびをしただけでもたわみ、奥歯の位置で2~3mm減少します。 逆に強くかみ締めたときには歯槽骨は曲がり、その曲げる力は広く骨に伝道します。このとき、骨に伝えられた力に応じて骨の吸収と添加が起きます。つまり、機能や生活習慣、癖に応じて骨は適応し変わっていくのです。
また食べ物の話ですが、ガムやグミが好きでいつもかんでいるような人はえらの部分が発達して顔の形が四角くなってきます。 逆に口で呼吸したり、扁桃腺が腫れるなどで、いつも口を開けている人は顔が細長くなり、面長な顔、いわゆる”アデノイド様顔貌”になります。このように力がいつもかかっていると筋肉のバランスはもちろん、骨も変わってくるのです。たとえ生理的な弱い力でも、普段生活しているときに、口をあけていたり、舌が下のほうに下がっていたり(異常な位置です)しても徐々に骨を変える効果があります。実際、舌が歯に当たるときのような力が矯正歯科治療では最適な力だとされています。 持続的な力が正常であればよいのですが、現代の社会生活では力のバランスに狂いが生じていることが多いと考えられます。
逆に無重力空間では骨はどうなるの?
一方、もし、生活の中で持続的な力がまったくなくなると筋肉や骨はどうなるのでしょう? 無重力環境下で筋肉や骨に生理的力が働いていない宇宙飛行士がすでに経験していることですが、筋肉や骨がどんどん萎縮(痩せる)してきます。 1900年代の初め、ドイツの生理学者Wolffは骨に加えられる力に沿って骨の内部構造が力を受け止めるのに最適な構造に変わっていくのを突き止めました。これをヴォルフの骨の法則といいます。このように日常生活でかかっている強弱の生理的な力で私たちの身体はそれに適応して筋肉や骨を変えていくことがわかります。 異常な力のバランスで長期間生活していては顔の形は変わり、仕事やプライベートにも重大な影響を与えます。
筋肉のような弱い持続的な力で歯を動かすと・・・
上の図はウサギの歯の周りの血管の顕微鏡写真です。毛細血管が歯の周りに網の目のように張り巡らされているのがわかると思います。矯正治療では歯に力をかけて動かしていくのですが、写真のようなか弱い毛細血管をつぶさないように力をかけなければなりません。血管をつぶしてしまうとその部位の組織は壊死し、歯根は吸収します。歯が動くスピードも遅くなりますし良いことは何もないです。 しかし伝統的な矯正治療は歯にかける矯正力が強い傾向にありました。そして、歯が動かなければさらに強い力をかけていました。でもその矯正医も強い力をかければどうなるかは勉強しているはずなので知っていたと思うのです。でも実践できていませんでした。一つの理由は弱い力を確実に歯に伝える装置や弱い力を発揮するワイヤーなどの材料がなかったという事があります。
生理的に最適な矯正力とはどのくらい弱い力なの?
1932年にSchwartzと言う人がすでに見つけています。彼によると20~26g/cm2という弱い矯正力でいいことがわかったのです。これはどんな力かといいますと、手の甲を指で押してみてください。離すと皮膚が白くなりますよね?その力ではすでに血管を止めるほど強い力だという事です。どれだけ弱い矯正力でよいのかお分かりいただけたかと思います。
この弱い矯正力は舌が歯を押す力に近いことから、実は最適な力は既に自分達の身体が知っていたともいえますね。だから、歯が動かないときには力を強くするより他に原因がないか色々な切り口で確認することが必要なのです。このような生理的な矯正力がかかってはじめて歯の周りの骨(歯槽骨)が吸収と添加をおこしてスムーズに歯が動きます。
顎関節は大人だと変わらないの?
上の図は顎の関節の断面図です。下顎に矯正歯科装置を装着して下あごを前に出し続けたときの効果を見たもので、AがBEFORE、BがAFTERです。図の丸みを帯びたものが顎の関節で、左にあるのが関節の後ろの壁です。矯正装置を用いて下あごを前に出したときの変化は”後ろの壁”に骨が出来ていますね。この関節を収めるソケットを関節窩といいます。ここに機能に適応して骨が付いてくると下あごは前に出て機能します。顎がないとお悩みの方は一度、矯正治療の相談をされると良いと思います。子供ではより旺盛な骨の添加が見られますが、これは大人でも関節の後ろの壁に骨が付いてきます。
一方、丸く見える”関節頭”は成長がまだ残っている子供でないと骨の添加が起きません。ですので子供の矯正治療(小児矯正)は大人と比べてできることが増えるために有利ではあります。矯正歯科医の間でも議論が多いところですが、機能、筋肉が骨の形態と構造を変えると言う事は今や常識です。
姿勢と頭位
パソコンを使うデスクワークの方や最近のスマートフォンの普及に伴い猫背など姿勢が悪くなっている方が増えてきているように思います。それとともに仕事中でも肩こりや頭痛に悩まされる方が増えています。猫背姿勢の方が最近増えたように思います。これにはパソコンを使う機会が増え猫背姿勢でイスに座っている時間が増えたことや通勤通学途中で顔を下に向けスマートフォンを操作するなどの社会的な要因があります。実際、私の診療所で矯正歯科診断に使う頭のレントゲンにも猫背の傾向が現れていて後屈しているはずの頚椎の形がまっすぐになっている方〈ストレートタイプ)が増えています。
肩こりは不定愁訴といわれることもありますが、一般的に肩だけでなく筋肉の『こり』は何らかの原因で習慣的に筋肉が緊張し続けていることで起こります。肩がこっている時の主な筋肉は僧帽筋です。この筋肉は後頭骨と肩甲骨などの背中の骨格との間を走行している広い筋肉で頭の位置を安定させる重要な役割があります。仕事でパソコンやスマートフォンに集中していると頭が下がってきますがそれを後頭部から引っ張って支えるのが僧帽筋です。頭が下がらないよう支えるためには僧帽筋は収縮して緊張状態を保つ必要があります。この緊張が習慣的になることによって肩がこるのです。
姿勢と咬み合わせへの影響
悪い姿勢や頭位は生活習慣として知らず知らずのうちに定着してくるものです。舌の低位や口呼吸の習慣をはじめ習慣的に弱い生理的な力が不正にかかっていると筋肉・神経系がその状態に適応し続いて骨も適応して変化してきます。猫背の方は下顎が前方に変位することが多く顎の変位に伴って徐々に咬み合わせが変化し、周囲の骨が適応してくるため顔立ちも変わってきます。ショルダーバッグや乳児を抱くためのスリングを片方の肩だけにかけ続けている習慣がある方は、そちら側の僧帽筋が緊張し続けますのでスリングをかけている肩がこってきます。このように僧帽筋が習慣的に緊張している方は緊張している側の肩が上がり高さに左右差が出てきます。同時に頭が緊張している側に引っ張られますので頭位も傾いてきます。頭位の傾きは咬み合わせに影響を与え頭位の変位が重度であるほど顕著に咬み癖が出てきます。重心のバランスを取ろうとするため噛み癖は傾いている側と反対側に出やすいです。このように噛み癖が付いてしまうと咬む側の咬筋が発達し顔の非対称性がでてきます。
参考文献
- Orthodonntics Current Principles and Techniques 5th edition, Graber, Vanarsdall, Vig 2010 ELSEVIER
- 骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと 鈴木尚 東京大学出版会